沿革
一滴のしずくのように
それは、一滴のしずくのようでした。一組の宣教師夫妻の夢から始まりました。
大戦後の1949年末、共産化した中国から追われた一組のスウェーデン人夫妻が、台湾経由で来日。翌50年から大阪府下の堺市で宣教を開始しました。次々と救われてくる日本人、特に若者たちに、彼らは次の時代の日本宣教の夢を託しました。
ヘルゲ・ヤンソン宣教師は、宣教前進のためには救われた人々がもっと深い聖書の学びと訓練を受けることができる聖書学校の必要を祈りはじめました。
手作りの堺時代
堺福音教会での小さな聖書研究会が毎年秋のバイブルコースに発展していきました。周辺に広がり始めた教会からの参加者もみ言葉に飢え渇いて出席しました。そうして1961年9月、リーダーたちは信仰によって堺福音教会と宣教師の家を用いて、学生8~10名ほどのささやかな1年コースの聖書学院をスタートさせました。施設も人材ものちにはどれほどの流れになるかを知る由もない、源流の小さな流れのような出発でした。翌年には、福音聖書学院(EBI)という校名を掲げ、修養期間も3年とされました。
堺市での活動が数年間経過した頃、兵庫県西宮市で大学生伝道に従事しておられたアーネスト・ペトリ宣教師から、「大学生寮として建てた建物の一部を聖書学院として用いませんか?」という提案がなされたのです。ペトリ師は関西学院大学の隣接地に私財を投じて300坪の土地を求め、そこに鉄筋で4階建ての立派な学生寮を建てておられたのでした。
大きく羽ばたいた西宮時代
大学街の素晴らしい施設に移転した聖書学院は、翼を得たように充実発展していきました。名称も関西聖書学院(KBI)と変わり、ノルウェーを初めとする同じ北欧からの宣教師がたも理事に加わり、共同経営の時代に入りました。神学生の数も倍増しました。
西宮市への移転後約10年余は、聖書学院と大学生寮(男子のみ)が同じ建物に同居するというユニークな年月が流れました。他に類を見ないこの組み合わせが本学院の伝道的な体質をも育てました。学びながらにして一つ屋根に未信者の学生が下宿し、同じ玄関から出入りし、大浴場にて歓談するのです。実際にこの学生寮から主を信じる若者が多く起こされ、西宮福音教会が生み出され、多くの献身者が輩出し、今日さまざまな教派・教団で活躍しておられます。
本学院の「十字架と聖霊」の実質ある教えはF・スンベリ師・高橋昭市師の両学院長、また理事長・教師としての我喜屋光雄師を中心に育まれてきたと言えるでしょう。
この時代、関西聖書学院は聖霊派と福音派をつなぐバランスある聖書学院として全国から学生が集うようになりました。大いに飛躍を遂げた約40年の時代でした。
奇跡を拝した生駒への移転
施設も教師陣も充実し恵まれた西宮時代から現在の奈良への移転は、95年1月の阪神淡路大震災が契機となりました。2001年から校舎刷新が検討されはじめ、05年主は奈良県生駒市にすばらしい物件を備えてくださいました。そのすべてのプロセスは綱渡りの連続で、まさに主の奇跡を拝し続けました。
現在私たちが希求しているのはこの福音をいかに正しく、ストレートに、多くの方に伝えるかです。変えることのできない福音と変えるべき伝え方の接点を研究しています。福音とto beは変えられません、しかし時代と地域にどう適応して入っていくかは取り組むべき課題です。私たちは自分の中にある伝えられた福音を再吟味し、慣れ親しんだ伝統や文化を相対化して、すべての人に届く「福音」を追及しています。それがこの時代に課せられている大切な使命と考えます。
現在は豊かな施設の中で約40名の学生と学院長家族、協力宣教師、スタッフ数名が一緒に生活しながら、ともに主の訓練にあずかっています。
こちらに移転以来、学生数も一回り増え、また宣教師訓練コースや開拓伝道者コース、通信制など各コースが充実して参りました。今後は教師スタッフの充実やもっときめ細かな卒業生のケアなどをめざしてまいります。
一組の宣教師夫妻の夢と続く人々の、それぞれのひとしずくの献身が神様によって尊く持ち運ばれました。現在1年以上学ばれた卒業・修了生は550名を超えました(2014年10月現在)。国内各地と世界の各宣教地で主の働きにいそしんでおられます。