荒川聖志 浜松汀キリスト教会
荒川聖志
41才(インタビュー時)
浜松汀キリスト教会
副牧師
2013年度卒業
荒川さんとイエス・キリストとの出会いについてお聞かせ下さい。
クリスチャンホームに生まれましたけれども、十代の頃は家を離れ、好き放題やって、教会へも行かない生活を送っていましたね。自分は価値のない人間だなー。居ないほうがいい人間だと思って生活していました。
でも、あるとき聖書コリント人への手紙の、あなたは神様の体の一部であって、神様のご用のために作られたという所を読んだときに、その「あなた」が自分について書いてあると、その時初めて思ったんです。『ああ、神様はおられて、神様のご用のために「わたし」が、他の誰かでは無く「わたし」が作られたんだ』と感じたんですね。それで自然に献身の思いが与えられて、今に至るって感じです。
自分には価値が無いと思ったのは何故なんですか?
私には学歴が無いんですね、あるとき好きな女性ができて、結婚したいと思っていたんですけど、「学歴が無いからあの人とは結婚しない方が良い」と言ってると情報が入ってきて、自分もそれで、「そうだな」と思ったんですね。学歴が無いからダメなんだと思って、その学歴を手に入れようと思ったんですよ。で勉強して大学へ行こうと思ったんすけど、努力できなかったんですよね(20才)。それで余計に自分に落ち込んだんですよね。「ああ、自分はなんてダメなんだ!」って。そこから2年ぐらい希望が無いなと思っていたんです。
そんな時父がYWAM (ユース・ウィズ・ア・ミッション)を進めてくれて、自分は行き詰まっていたので丁度逃げ道になって都合が良かったんですね。でそのYWAMに行くことにしました。それが22歳の時ですね。YWAMでのレポートを書く過程で聖書を読んでまとめるという課題があって、それをまとめながら、いつの間にかそれが自分の中に生きた言葉として入ってきて、その時初めてアタマで知っている神様から、生きている自分の神様だと言うことを知ったんですよね。一年ぐらいそこに通って、27歳の時に今度はハワイのYWAMへ1年半ぐらい行って、色々学んで帰ってきたんですね。
帰ってきてから父と一緒に同じ物を目指して働くようになったんですけど、今度は父と衝突が起こるようになったんですよ。まだ若かったので、自分がこうだと思った事に自信があって、それを父に言っても受け入れてもらえない、理解されない。その中で、父も傷付いたし、自分も傷付いたし、そうこうしているうちに「自分は牧師になるべき器ではないな。」と思う様になり、牧師になろうと思ったのは勘違いだったんだと思ったんですよ。それからサラリーマンになって、教会に仕えるようにしよう。それが自分にふさわしい、力量にあったことなんだと思ったんですよね。それでサラリーマンになって6年勤めましたね。
あるとき父が教会の委員会で「そろそろ後継者を探すべきではないか」と話し出したんですね。その時それを聞いて自分の中に「それは僕ではないか? 僕はこの教会で牧会者として歩んでいきたいと思った」と言うことを思い起こして、それでまた祈らされたんですね。それを通して神様が自分の事を召しておられる、昔頂いたその召しは変わること無く、自分の中にあると気付いたんです。自分はなりたくない、これは絶対に自分のものではないと思っているのに、それは自分の仕事であると召しが掘り起こされて、神様はこれに本当に召しておられると、もう一度献身の思いが与えられて、KBIに来ることになったんです。
妻にも相談したら、妻も牧師夫人になるという召しが与えられていて、将来そうなるだろうなと思っていたそうなんです。妻は僕より先にKBI修了していたんですけどね。
KBIに決めたのは何故ですか
JECのキャンプに行ったときに「この先生達いいな」「自分もこんな風になれたらな」と思ったんですね。その先生方がKBIの出身だったんです。また妻もKBIを2年修了していたので、他に何処も探すこと無く、KBIに決めました。KBI自体はよく知らなかったんですけどね。36歳のころです。
KBIに入るときは、一から学び直して、ふさわしい器になりたいという思いがありましたね。でも実際は違いましたけどね。実際は周りと比較するじゃないですか。皆さん色んなビジョンとか才能が与えられてて、自分には何も無いな、大したことないなあ、ほんとうにいいのかなあ、と思ったりしましたね。
でもそれは自分の努力や才能ではなく、神様からのものであり、自分で判断して「出来る、出来ない」という思いでやると、いつか失敗する。ということを繰り返し繰り返し教えてもらうんです。これが自分が3年かけて学んだ一番大きなコトなんですね。KBIでの学びが進むにつれて自分の価値がドンドン下がっていったんです。「僕はなんてどうしようもない人間なんだ。」って。でもそれに反比例してドンドン神様の恵みの大きさを知ることになるんです。
自分はこんな者である。でも神様は導いて用いて下さる。その時に自分ではない、神様が建て上げて下さり、神様がいるからこの勤めが出来る。と、体験することによって自分は変えられていきましたね。自分のやりたくない奉仕ですとか、自信の無い奉仕だとかやるじゃないですが。でもそれを神様に委ねながらやるときに神様が行わせて下さることを経験していくんですよね。
作業は楽しかったですね。竹を切ったりペンキを塗ったりするのは大好きなんですよね。勉強よりもそっちがスキだったりして。サッカーもここに来て初めて休み時間にやったんですよね。そこで覚えて、今では地域の中に出て行くのに役立っています。地域のサークルに入ってコミュニティーを広げるのに、やってて良かったなと思いますね。自分の範囲が広がった。
KBIで学んだことは、今どのように活かされていますか
自分の弱いところがあるじゃないですか。それを突いてくる人達は居るんですけど、それはもっともだなと思うんですよね。そういうことが起こった時にどの様に対応すれば良いかと言うことを私は学んだなと思いました。そう言う状況だったら自分の中にも言い訳したいことはあるんですよね。自分がどんなに悪くても、自分の正しさを示したいじゃないですか。そんな時に「大田先生はどうしていたかな」と思い出してみると、大田先生は言い訳しなかったんですよね。自分を守るのでは無く、委ねると言う姿を見たんです。自分もそうあるべきだなと思ったんです。神様の御心って何だろうって思ったときに、言い訳することじゃない、謝ること、自分の非を認めること、自分で何とかしようとするのではなく、委ねきることだと思ったんですよね。それは先生の姿を思い出し、それは自分にとってとても大切なものになりましたね。
その時、十字架にかかったイエス様の姿と強盗の姿を思い出したんですよ。自分が強盗ですね。強盗にも色々と言い訳したかったことがあったと思ったんですよ。強盗にだって色々と悪いことをした理由があっただろうなと。家庭環境が悪かったり、人に騙されてお金が無かったとか。でも一人は自分は悪い者だと認めた。それで救われた。それはイエス様の十字架を隣で見ていたからだと思うんですよ。イエス様は言い訳しない、それは悪いことをしていないのに言い訳もしない。自分が悪いことをしたのに言い訳をしたいのとどれだけ違うのかなと思いました。やっぱり言い訳しない姿はイエス様にあるって思って。先生の姿を思い出し、強盗の姿をイメージし、イエス様の姿を思いましたね。
KBIをどんな人に勧めたいですか
現場に出て働きたい人、クリスチャンであるならば、自分の自信の無さとか、自分を見てダメだなと思って居る人には、そうではないんだ、神様が召しておられるんだということをしっかりと学んでほしいです。また学ぶだけではなくしっかりと体得していくには特にお勧めですね。
本日はありがとうございました。
インタビュー制作:トゥルース