松延瑠都子
27歳(インタビュー時)
福岡県 久留米ベテルキリスト教会
両親がクリスチャンのクリスチャンホームに生まれました。
聖書やイエス様のことは幼い頃から知ってましたが、自分とどう言う関係なのかはずっと分からずに育ちました。
高校受験の時、私は勉強が苦手だったので、学校を選ぶのに凄く悩みました。こればっかりは両親にもどうしようもないし、自分もとても不安。考えれば考えるほど不安が募るばかりでした。
「これはもう神様にお願いするしかない!」と思って、その時初めて自分で「神様、高校に受かりますように!」と祈りました。すると、希望した高校に合格し「神様が私の祈りをきいてくださった!」と確信を持ちました。それからです、困難にぶつかったとき、寂しさを感じるとき、ほかにどんなときでも神様に祈ると安心できました。そして次へ進めるということが何回も何回も続いて、「神様は本当にいてくださって、私の祈りを聞いて下さる方なんだ。」ということを経験して、そこから少しずつ私は変えられていきました。
ちょうどその頃、牧師先生から「イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかって死なれ復活された。それはみんなのためだけども、自分のためだと言うことをしっかり覚えておくように。」と言われたときに、「あっ、そうか。私のためなんだ!」と気付き、ハッキリと確信が持てました。そして洗礼を受けたんです。18歳の時でした。
その頃は喜んで教会へは毎週行ってたんですけど、だんだん喜びが減ってきて、「なんで私は毎週教会へ行ってるんだろう?」と思う様になりました。
当時、教会では音響のお手伝いをしていたので、礼拝・賛美の練習と礼拝にはきちんと参加していました。それもあって、「私はお手伝いをしに行ってるだけ。神様を本当に礼拝しに行ってる?」と思う事が増えました。
そんな思いを抱きながら、音響関係の会社に就職が決まりました。音響関係の仕事は土日が普通に仕事だったので、教会に行くことが出来なくなってしまいました。生まれてからこれまで、毎週当たり前のように教会へ行ってたのに、それが当たり前ではなくなったときに、「それが自分にはすごく大切で必要な事だったんだ!」と分かりました。
それに気付いてからは途中からでも、少しの時間でも、礼拝に行くようになり、感動できるようになりました。毎日の生活においても、祈って聖書を読んでから仕事に行くようになりました。神様の言葉と、神様が一緒におられるという安心感が無いと仕事へは絶対行けなくなりましたね。
なかなか日曜日に教会へ行けない状態の中「やっぱり日曜日は教会へ行きたいです。行かせてください。」と毎日祈る中で、その思いは「神様のために働きたい」という思いへと変えられていきました。
ある時に聖書を読んでいると「仕事を辞め、神様の仕事に仕えるのは今だ。」とハッと思ったんです。それから親と牧師先生にそのことを言ったら、「じゃあ、教会で働けるようにしましょう。」と、突然道が開けたんです。それからはバイトをしながら神様のために働くという献身生活を送りました。
それから3年、牧師先生から「そろそろ神学校へ行って学ぶべき時期じゃないですか」とお話しがありました。私は神学校へ行くと、「人間関係で揉まれるがわかっていたので、絶対に行きたくない!」と思っていました。でも、「自分の思い込みや私的解釈では無く、聖書のことを正しく深く知りたい。」という思いもあって、祈り続けていると「神学校へ行きたい」という思いに変えられていき、神学校へ行くことを決意しました。
自分の中には幾つかの神学校が候補にあったんですけど、牧師先生に委ねることも大切かなと思ったんです。牧師先生自身もKBIの出身だったいうこともあって、KBIを勧めて頂きました。ウチの牧師先生とKBI同期の先生との友達関係を見たときに、いい仲間との繋がりが出来るんだなと思い憧れました。そして「私もこう言う友達が欲しい」と思いました。それで、KBIに決めました。
はじめに一番苦労したのは「関西弁」でしたね。「ぼけ」と「つっこみ」に慣れなかったんです。みんなは「愛」をベースにしていじっているのに、私はそれに気付かず「いじめられている」と感じてアタマにきて、ココロを閉ざしそうになっていました。また自分の方言も使えないのがさらにストレスを大きくしましたね。でも時間が経つと、自分が嫌われているのでもいじめられているのでもない、と分かってきました。それは、学生のグループ構成が同学年の「横の繋がりグループ」と学年が違う「縦の繋がりグループ」の両方があって、ボランティアや奉仕の活動はそれぞれのグループで行います。特に「縦の繋がりグループ」での活動の時に、先輩達と話しをする時、祈ってもらう時に、「違うんだ、愛情表現なんだ。それもキリストの愛がベースなんだ。」って分かってきたんですよ。それに気付いて、自分もココロを開いてみんなのことを受け入れる事が出来るようになっていきました。ちょっと面倒臭いですけどね。でも今はみんなお互いを受け入れられ、祈り会える仲間であり友達です。
入学前は、先輩は怖いもの、友達は受け入れてくれるかどうかわからない、失敗したら怒られ嫌われるから失敗しちゃいけない、弱さを見せるとウザイと思われる… といろんな不安もあったんですけど、全く心配入らなかったですね。自分が何か出来るからと言う理由ではなく、存在自体を受け入れ合うことができます。自分が受け入れられているから、自分も誰かを受け入れられるように変わっていきました。入学前は落ち込んでいたセルフイメージも高められました。そして自分が練られることも痛みではなく、もっと練り聖められたいとココロから思います。
毎日、朝と夜にみ言葉を読む時間があって、起床時間就寝時間が決まっている、クリスチャンとしての正しいサイクルを学ばせて頂いてます。
授業では実際に現場で活躍されている講師の方が来てくださるので、知識は勿論、実体験に基づいた実践的な学びが出来ていると感じています。「牧師というのは神様によってしか働けない」ということがガンガン響いてきて「こういう人になりたい!」と自分の働き人としてのモデルケースを色んな授業で体験出来ていると感じています。特に好きなのは「説教学」で自分も神様のみ言葉を取り次ぐ仕事をやっていきたいという情熱、夢、志が与えられます。
訪問牧会学、教会指導者論では、どういう風に教会を作っていくか、弟子を作るか、と言うことが学べます。みんなに評価してもらって、自分はどの様になおしていけば良いのかが解るのが実践的でいいですよ。
私はみ言葉を取り次ぐ働きをやっていきたいと思っています。牧師とか宣教師とか、カタチにはこだはりはありません。また、メッセージの通訳もやりたいんです。今、フィリピンとの繋がりがあるので、その方達が日本に来て生活をするにあたり、コトバのお手伝いをしたいという思いもあります。やりたいことがドンドン膨らんでいきますが、それらを現実的にどの様なカタチにしていくべきか、模索しているところです。
自分の弱さを知れること、人格の部分で神様に取り扱いを受けることが出来ること、と同時にいかに恵みが大きいのかも知ることが出来ます。それから友達、仲間が素晴らしい。これから献身したいと願っている人、海外宣教へ行こうとしている人、ビジョンは様々でも、お互い祈り合い、励まし合えるところ、たくさんあります。
インタビュー制作:トゥルース